十 牛 図 pdf

Add: idekidit92 - Date: 2020-11-20 16:47:15 - Views: 9905 - Clicks: 5504

十牛図と教育心理学 大西文行 (東京未来大学) この論文は十牛図の教育心理学的意義を検討する ことを目的にしている 。 十牛図につ いて 十牛図は中国北宋時代の廓庵前肢の創案した禅修 行による真の自己究明へ の段階を10段階に図示した 十 牛 図 pdf ものである。. 十牛禅図(じゅうぎゅうぜんず)要出典や牧牛図ともいう3注釈 3。作者は、中国北宋時代の臨済宗楊岐派の禅僧・廓庵(かくあん)15。 廓庵以降、十牛図は世の中に広まっていたとみられるが、十牛図の作例はそれほど多くないとされる1。. 自分の牛を探し求める、つまり自分の本当の心を探すところから、物語は始まります。 寶樹山 萬福寺 じゅうぎゅうず【十牛図】 中国,宋代の禅文献の一つ。修行と悟りの過程を,連結する10枚の絵と偈頌,および短い文によって示す。. 忍耐(にんたい) 4、精進(しょうじん). 坐禅 6、智慧(ちえ). 十牛図は日本文化の中で欠落しつつある深い精神性の回復に役立つ可能性を有する。 はじめに-十牛図現代考 禅において、修行を牧牛に譬えその過程を十の段階に分け図と頌 じゅ で表現した十牛図とい う小冊子がある。. 第8図「人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう)」を見ていく前に、まず「空(くう)の教え」を説明しておきます。 たとえば、水があふれんばかりに入ったコップがあるとします。このコップで、別の飲み物が飲みたいとき、どうしますか。水をほかの容器に移したり、飲んだりして、とにかくコップの中を空っぽにすることでしょう。 コップの中の水は、人のこだわりや価値観です。この、こだわりや価値観を、いったん空っぽにしなければ、ほかの考え方を受け入れたり、ものごとを自由に考えることはできない、というのが「空(くう)」の教えです。 たしかに、こだわりや価値観は、ときに迷いをふりはらったり、行動のよりどころになったりする面もあるように思います。しかし、こだわりも価値観も、絶対に変わらないものかといえば、自分の都合や人の意見によって変わってしまうこともあるでしょう。 十 牛 図 pdf こんなふうに、自分では確かなものだと思っていることでも、じつは案外たよりないものだったりするのです。たよりないものに、いつまでもしがみついていてはいけません。それは、川に流されているのに、自分で泳いでいると思いこんでいるようなものです。 ― 序 ― ああしたらいいだろうか、こうしたらいいだろうか、という迷いの心からは抜け出した。かといって、何もかも分かったような、さとりの心にも、もはや、とどまってはいない。 仏さまがいる世界にいつまでも遊んでいることはない。さとりの心にとどまれば、「さとり」ということに迷ってしまう。仏さまのいない世界ならば、なおさら、さっさと走りぬけていきなさい。 これが迷いだとか、あれが「さとり」だとか、そんなささいなことに心をうばわれなければ、たとえ観音さまでも、その心を見ぬくことは難しいだろう。心に何の考えもなければ、見ぬきようがないからである。 十 牛 図 pdf さて、あるお坊さんが修行しているところに、鳥が花をくわえてお供えに来た。お坊さんがさとりを開いたら、鳥はもう来なくなった。さとったことを鳥にまで見ぬかれているとは、なんと恥ずかしいことではないか。 今回の「十牛図」には、何も描かれていません。第1図からずっと描かれてきた、旅人の姿も見えません。まさに「空(くう)」です。自分の都合も、立場も、知識も、経験も、すべて空っぽになった状態です。 旅人は、自分のやるべきことは何か、幸せとは何かを探していました。「さとり」とは、その.

第1図「尋牛(じんぎゅう)」で牛を探していた旅人は、第2図「見跡(けんせき)」で牛の足あとを見つけました。そして、この第3図「見牛(けんぎゅう)」にいたり、ようやく牛を見つけました。しかし、牛はその姿の一部しかあらわしていません。 向かいあう旅人と牛。そこには、まだ少しの距離があります。つかまえようとすれば、牛は逃げてしまうかもしれません。 牛は、「こうなりたい」という自分自身の姿です。お経の教えや他人の人生を参考にしながら十分考えた、自分だけの目標です。 目標があれば、そのためにするべきことが何なのか、自然に分かるようになります。そして、その目標に近づくために必要なものは、自分の本来持っている感覚や日々の行いなど、決して特別なものではない、というのが「十牛図」の教えです。 さて、目標を追いかけてきた自分は、やがて目標によって成長していきます。こうなれば、もはや自分と牛(目標)とは別のものではありません。 ― 序 ― 牛の鳴き声が聞こえたので、その声を頼りにたどってみれば、ようやくのことでその姿を見つけることができた。それは、旅人が一方的に探し求めていただけでなく、牛のほうからも近寄ってきたからである。牛も自分を探していた。 自分の目も耳も、鼻も舌も、体も心も、その感覚のひとつひとつが、牛を見つける手がかりとなった。日常の行動もまた、その一挙手・一投足が、やはり牛を見つけるために必要だった。 だから、まるで海水に溶けこんでいる塩の味や、絵の具の中に含まれている「にかわ」のように、自分と牛も、同じように分けて考えることはできない。 まゆ毛をさっと上げて、目をはっきり開いて見つめれば、まさに牛と自分は別のものではないことに気づくだろう。 旅人は、何の手がかりもないところから、お経などの言葉によって足あとを見つけ、ついに鳴き声によって牛の姿を見つけました。 しかし、この鳴き声も、旅人がほかの事に気をとられて注意していなければ、聞こえなかったでしょう。 牛の鳴き声に気づくきっかけは、人によって違います。足あとだったり、においだったり、ひょっとして偶然かもしれません。でも、いずれにせよ、どんなに小さな鳴き声でも聞きのがすまいと思っていたからこそ、聞くことができたのです。 ― 頌(じゅ) ― うぐいすが枝の上で鳴いている。 春の日は暖かく、風はなごやかに吹き、川岸の柳は青. . の中で『十牛図』の解説をしている。また、山田無文()の『十牛図-禅の悟りにい たる十のプロセス』(12)は、“Lectures On The Ten Oxherding Pictures”(13)として英訳されてい る。. 河内牛は、まあまあという所で駿牛も存在する。 8. 大和牛は、大柄という特徴がある。角蹄が弱いという欠点があったが近年は良くなった。 7. ※『国牛十図』:当時の国産牛の見分け方を紹介したもので、筑紫牛(姿がよい)、御厨牛(たくましいしい)、淡路牛(小柄だが力が強い)、但馬牛(腰や背が丸々として頑健)、丹波牛(但馬牛とよく似ている)、大和牛(大柄)、河内牛(まあまあと. Find Out How pdf the World&39;s Most-Used PDF App Can Move Your Business Forward.

十 牛 図 pdf 前回までのおさらいです。 まず、第1図「尋牛(じんぎゅう)」では、「自分にとっての幸せや目標とは何か」を考えはじめ、第2図「見跡(けんせき)」では、その手がかりを見つけました。 次に、第3図「見牛(けんぎゅう)」のところで、その目標がはっきりと姿を現しました。そして、目標に向けて行動を起こしていくのが第4図「得牛(とくぎゅう)」で見てきたところです。. 十牛図(じゅうぎゅうず)は、悟りにいたる10の段階を10枚の図と詩で表したもの 。 。「真の自己」が牛の姿で表されているため十牛図といい、真の自己を求める自己は牧人(牧者 )の姿で表されている 。. See full list on tama-bushi. 淡路牛は小柄ではあるが力が強く、逸物も少なくない。近年、西園寺公経から御厨牛と同等の評価を得た。 4. 十牛図の場合には「永遠の汝」でなくて、第八図の 「空円相」、「絶対無」でほんとに我(が)の根が切られる、と。 しかも自分で切るんじ ゃなくて、そういう「本来空」によって、ほんとに自分から離れられる、という。. 越後牛(図無し)は、力が強く、まれに逸物がある。この牛の図はない。 十 牛 図 pdf と詳しく産地別に牛の特徴について書かれています。 この国牛十図にしっかり壱岐産の牛について書かれているのが、壱岐牛の古い歴史. 05 lismile 『十牛図』とは?十枚の絵の意味や解釈の方法をわかりやすく解説. 戒(いまし)め 3、忍辱(にんにく).

施(ほどこ)し 2、持戒(じかい). 脂の甘味や肉のうまみサシの美しさは、牛の血統、自然環境もそうですが、生産者の想い、愛情を込めて丁寧に育てているなど、数字に表れない部分も多いと思います。 牛を生産していて、なぜ肉の質に差が出るのか、それはどこで生まれ育ったかという産地だけではなく、餌の良し悪しだけではなく、牛にいかにストレスを与えないようにきめ細やかに愛情深く育てるかというのが大事だと肥育農家として感じています。 それは数値には表しにくく、マニュアル化もしにくく、ましてやAI等でシステム的に管理できるものではなく、できるだけ牛にストレスを与えないようにしたいという気持ちを持って、どれほど『愛情』を込めて牛を育てるかが大切です。 そして、昔からの牛の名産地になっているところは、牛と人間が深い関わりをもって、牛を大切に育て、牛を大切に食すという文化が土地のDNAとして、伝統的にはぐぐまれている産地が名産地になっているような気がします。. では早速、十牛図の解説に参りましょう。 1. 4〜6の「体得」のステージ 3. 越前牛は、大柄で逸物が多い。 10. キャッチボールの基本は、相手をしっかり見て投げることだといわれます。同じように、毎日の生活でも目標を見定めることは大切なことです。 それでは、禅の目的とは何でしょうか。禅の教えとは、物事にこだわらず、あるがままの心を持つことで、自分を見失うことなく生きることができる、というものです。「こうでなければならない」というのは、きゅうくつな生き方である、と禅は説きます。 「金剛経(こんごうきょう)」というお経には、次のような教えがあります。 「お釈迦さまはいつもおっしゃいました。『修行をする人たちよ。私の説法は、筏(いかだ)のようなものだと心得なさい』と。」 筏(いかだ)は、川を渡るためには必要なものです。しかし、川を渡ったあとも、いつまでも筏(いかだ)をかついでいるのでは、かえって荷物になるばかりです。病気が治ったのに薬を飲みつづければ、薬も毒になります。仏教もまた同じなのです。 それでは「十牛図」の第7図、「忘牛存人(ぼうぎゅうそんじん)」を見ていきましょう。 ― 序 ― これまで、牛があたかも人とは別のものであるように描かれていたが、それは仏の教えを説くためのたとえであって、もともと仏の教えは二つでないように、牛も人も一つのものである。 ウサギをつかまえるためのワナや、魚をとるためのしかけと同じように、自分自身をつかまえるための手段として牛を用いたにすぎない。 牛と人とが一つのものであるということは、まるで純金が土の中にある石から出てきたり、雲が晴れて月が現れてきたりするのに似ている。 そのひとすじの月の光は、この世にはじめて仏があらわれるずっと前から暗やみを照らしていたのだ。純金も月も、土や雲にかくれていただけである。 図をみると、旅からもどった人が、荷物をといて、くつろいでいます。あれほど苦労してつかまえ、かいならした牛は、どこにも見えません。牛のことなど忘れてしまったかのようです。この図は、人と牛とが一体となった段階をあらわしています。 牛は、追いかける目標でもあり、本来の自分の姿でもあります。そして、牛は存在しないのではなく、かくれていただけです。雲が晴れて月があらわれるように、はじめから自分の中に牛はいたのだと「十牛図」は教えます。 このことに気づくことを、仏教では「さとり」といいます。でも、牛を探そうと思わなければ、自分のことすら分からないままです。. 中期西田哲学と十牛図 十牛図の起こりは必ずしも明確ではなく、絵とし てもいくつかの種類が残っているが、広く親しまれ てきたものは五祖法演の三世に当たる廓 かく 庵 あん のもので ある。「真の自己」ないしは「悟り」を牛に見立て、. お彼岸のお中日(ちゅうにち)にあたる春分・秋分の日には、太陽は真東からのぼり、真西にしずんでいきます。昔の人は、夕日を見ながら西方浄土を信じ、亡くなったご先祖さまに思いをめぐらしていたのかもしれません。 さて、「十牛図」も後半に入ります。牛を飼いならした旅人が、その牛に乗って家に帰る「騎牛帰家(きぎゅうきか)」の場面です。 旅人は、見つけた牛(目標)を何とかつかまえ、飼いならしていくうちに、牛と自分がぴったりと、ひとつのものになっていることに気づきました。 絵には、牛の背中で笛を吹いている旅人の姿が描かれています。手綱もにぎらずに、牛の進むにまかせています。 その行き先は、彼らの家です。「十牛図」は、突然、ある人が牛を探して旅に出たところからはじまりました。その旅も今回で終わりです。自分たちの本来いた場所に、戻っていくのです。 ― 序 ― 旅人と牛との戦いはすでに終わり、何かを得ることも失うこともなく、すべては元に戻った。 旅人は、きこりが木を切りながら歌うような、素朴な歌を口ずさんだり、子供のように、思いつくがままに笛を吹いたりしている。 体を牛の背中に横たえて、牛の歩みにまかせていくと、目の前には、雲の向こうに大空が、はるかかなたまで広がっているのが見えてくる。 もはや牛は、呼んでも振り返ることはなく、取り押さえても、歩みを止めることもない。 旅人は、なぜ楽しそうに歌を歌ったり、笛を吹いたりしながら、のんびりと家に帰って行くのでしょうか。「十牛図」の説くところには、旅人も牛も、もともと同じもので、やっとの思いで牛をつかまえ、手なずけても、「元に戻った」にすぎないのです。 それでも旅人が満足しているのは、誰に言われるでもなく、自分から牛を探しはじめたからではないでしょうか。自分の足で歩きまわって、いろいろ大変な思いをしてきたことは自分だけの財産です。「元に戻った」ことと、「何もしなかった」ことは同じではないのでしょう。 ― 頌(じゅ) ― 人が牛に乗って、ゆらゆらとゆられながら家に帰ろうとしている。 その人の吹く笛の音が、あたり一面に鳴りひびいて、夕焼けの雲を送っていく。 その拍子(ひょうし)や歌のひとつひとつには、限りない思いがこめられている。 その音色にこめられた思いが分かるなら、あれこれと説明する言葉など必要ないだろう。.

文字やことばには、限界があります。 ですから お釈迦様の悟りの内容 をすべて文字で表現しつくす ことは不可能です。 実際に体験してみることが、 どんなことばや文字にも優るのです。 また、 この真理を単に知識として知っているだけでは、 本当にわかっているとはいえません。 自分自身が仏であるという自覚と働きがなければ 知っていることにはならないからです。 ただし、 文字やことばをまったく否定するのではありません。 限界があるからこそ、 文字やことばを大事に有効に 用いなければならないというのが 不立文字(ふりゅうもんじ)の意味でもあります。 禅に語録が多いのも、こうした理由からなのです。. 十牛図は800年も昔の古典ですが、不安の 時代を生きる我々にも通用する大切なヒント を示しています。 ① じん 尋 ぎゅう 牛 禅の悟り=牛を探そう 常に何かが足りない 自信がない 自分を好きになりたい 立派な何者かになってみたいと 若者は思っています. Adobe — The 十 牛 図 pdf Leader in PDF Innovation for 25+ Years. 戦いは終わり、牛はすっかりなついています。 鞭も縄も不要で、もはや一念の邪心もありません。 安らかな境地の中、心牛の背中に乗って、ゆらりゆらりとゆられ、笛を吹いたり、歌いながら家に帰ります。 修道の極みを尽くし、無心になった境地です。 自分と牛、つまり意識と無意識が完全に一体になったわけですね^^. 「十牛図」は、中国の宋の時代の禅の入門書です。 pdf 絵には、それぞれ漢文の「序(じょ)」と漢詩の「頌(じゅ)」がつけられ、禅の考えや絵の説明が書かれています。漢詩(頌)は廓庵師遠(かくあんしおん)禅師が作り、序は弟子の慈遠(じおん)禅師がのちに付けました。「十牛図」の絵はさまざまな種類のものがありますが、ここでは、天理大学付属天理図書館蔵のものを見ていきます。 「十牛図」には、一頭の牛が登場します。牛は普段はおとなしく、物静かでありながら、あばれると非常に強く、手がつけられなくなります。その姿はまるで、人間の心の様子に似ています。 自分の牛を探し求める、つまり自分の本当の心を探すところから、物語は始まります。 ― 序 ― はじめから失っていないものを、どうして探し求める必要があるのだろうか。 せっかく持っているものに背を向けているから、大切なものを見失ってしまう。 自分にないものを探せば探すほど、自分が本来果たすべき役割からは遠ざかり、人生の分かれ道にぶつかっては迷いこんでいく。 炎が燃えさかるように損得で物事を考え、刀の穂先が次から次にわき起こるように善悪で物事を判断しようとするから、自分を見失い、大切なものに気づかなくなるのだ。 ― 頌(じゅ) ― あてもなく、草むらを分け入って探し求めていく。 湖は広く、山は遠くに見え、道はますます果てしない。 力は尽き、精神も疲れるまで探しているのに、何の手がかりもない。 聞こえてくるのは、カエデの木にとまる、夏の終わりのセミの鳴き声ばかりである。 禅ではよく「自分を見つめなさい」といわれます。第1図「尋牛(じんぎゅう)」には、牛(自分)を探しはじめた人の様子が描かれています。 では、「自分で自分を探す」とはどういうことでしょうか。それは、自分のことをよく知ることです。自分のことを知ることで、自分にとっての幸せとは何か、考えられるのです。大切なものが分かれば、生きることに目標を持つことができ、迷いがなくなります。 しかし、この「自分にとっての大切なもの」に気づくことが難しいのです。病気になってはじめて健康の大切さを知るように、あたりまえの幸せには、なかなか気づけません。他人と比べて、自分に足りないものばかりを見てしまいます。さらに、知識や経験が増えてくると、自分が一体どうしたいのか、分からなくなってしまうでしょう。 自分に.

『十牛図』とは、逃げ出した牛を探し求める牧人を喩えとして、「牛」すなわち「真の自己」を究明する禅の修業 によって高まりゆく心境を十段階で示したものです。 第一図 尋牛(じんぎゅう) ある日、飼っている一頭の牛が牛小屋から逃げ出したことに. 国立国会図書館のデジタルデータに、国牛十図がPDFで見れるようになっていますが、国牛十図は、箱に入った長い巻物であるのがわかります。 鎌倉時代のものですが、保存状態が良く、牛の特徴が細部に渡って記述されています。 この国牛十図は国学者の塙保己一が編集した群書類従の28巻に所収されていることから、その底本になっていると考えられています。 江戸時代の持ち主、 藤貞幹の序文には 『牛図は十図あるべし』とありますが、今絵が所存しているものは9つで、1つを逸してしまった可能性もあります。 国牛十図 は、牛の10の産地に分けてかいてありますが、 書いてある産地は 筑紫牛~姿がよい 御厨牛~たくましいしい 淡路牛~小柄だが力が強い 但馬牛~腰や背が丸々として頑健 丹波牛~但馬牛とよく似ている 大和牛~大柄 河内牛~まあまあというところで、駿牛も存在する~ 遠江牛~駿牛だが、ややあばれもの~ 越前牛~大柄~ 越後牛(図はない)~力が強い という10の産地別の牛の特徴が書かれています。 もう少し詳しく見てみると、 1. 1〜3の「理解」のステージ 2. (山田無文著『十牛図―禅の悟りにいたる十のプロセス―』禅文化研究所刊 160ページより) 十 牛 図 pdf 少し前、実家に帰省しているとき、上記の本を熱心に読んでいる私に、父が話しかけてきました。 「おっ、懐かしいな、その本。若い頃に読んだぞ。. 欲にまみれて煩悩に汚され、偽りの自分を演じているうちに本当の自分を見失ってしまいました。 智慧のある人が、 「お前の心は牛の形をして逃げていったぞ・・・」 と教えてくれたので、旅に出ることにします。 煩悩の草原を払いのけ、我執の山は高く、妄想の湖は深く、道は険しくて果てしなく、心牛は何処にいるのかわかりません。 そんな私をあざ笑うかのように、近くの楓の樹のセミ(雑念)が鳴いています。 真実の道への探求を一歩踏み出した段階。. 御厨牛は肥前国(現在の佐賀県、長崎県)御厨の産で逞しい牛である。もともと貢牛であった所からの呼称で、中古の名牛の産地であった。西園寺公経から朝絵の印を許可されたという。 3.

2第二図:牛の足跡を. 前回は、第1図「尋牛(じんぎゅう)」を見ました。ふと、ある人が牛(自分)を探しはじめました。それは、「自分にとっての幸せとは何か」を探す旅です。 そして、今回の第2図「見跡(けんせき)」では、牛の足あとを見つけたところが描かれています。「足あと」ですから、まだ牛そのものではありません。ようやく自分を知る手がかりをつかんだ、というところです。 さて、仏教では、一点のくもりもない月のことを「さとりの心」にたとえ、それを指し示す指を「お経や言行録」にたとえます。言行録とは、名僧といわれる人々の言葉や行いを記録したものです。 指をいくら見つめても、月は分かりません。同じように、お経の意味を知るだけでは十分ではないのです。あくまでも、お経や言行録は「自分を知るきっかけ」で、自分そのものではありません。道に迷ったときの参考にはなりますが、目標にはなりません。大切なのは、自分の月(目標)を見失わないことなのです。 ― 序 ― お経によって仏法の意味を理解し、教えを学んでようやく牛の足あと(自分を知る手がかり)に気づいた。 お経を読むと、どんな形の器でも、もともと同じ金属でできているように、あらゆるものの存在が自分とつながっている、ということが分かる。でもそれは、お経に書かれてあることを理解できたというにすぎない。 何が「正しく」て、何が「間違い」なのか、はっきりとわきまえることもできないのに、お経に書かれていることを鵜呑(うの)みにして、本物と偽物をどうして見分けることができるだろうか。 自分の頭で考えていないこの段階では、まだ禅の門に入っていない。(牛そのものを見つけていない。)とりあえず、「足あとを見つけた」ということである。 歩きまわって疲れが限界にきていた旅人は、自力で牛を探すことをやめました。そこで、お経を読み、いろいろな人から教えをうけて牛のゆくえを追いました。そのたびに、いったい、誰の言うことが正しいのか、何を信じればいいのか分からなくなってきました。なぜなら、お経に書かれたり教えられたりした牛は、自分の牛ではないからです。 でもそれは意味のないことではありません。他人の牛でも、牛は本当に実在することは分かったからです。足あとをたどれば、自分の牛は見つかることでしょう。 ― 頌(じゅ) ― じつは、今まで歩いてきた湖のほとりや林の中の、いたるところに牛の足あと. 『よい牛』が育つ土地というのは、昔からそんなに変わっていないのがわかります。 それは、その産地が良い牛を育てるのに適した気候、風土であったり、伝統であったり、筑紫牛(壱岐産の壱岐牛)もそうですが、但馬牛や淡路牛、大江牛など、現在も牛の産地として有名な土地が多いのが面白です。 良い牛が育つのには、適した風土などの環境があって、それは案外鎌倉時代から同じなのかもしれないですね。 「和牛の産地による銘柄がいろいろあるけど、和牛だったらどれも同じじゃないの?」 と思われている方も、確かに、味だけで産地を判別するのは難しいと言えます。 各産地の銘柄牛どれも美味しい。 それも間違いではないと思いますが、 日本は南北に長く気候の差も大きく 南国で育った牛と、雪が多く寒い土地で育った牛では、水分を摂る量や汗をかく量なども異なるので、肉質や脂質に違いは出ます。 また、牛の名産地はたいがい米や穀物の名産地とリンクしていて、穀物がスクスクと育つ恵み豊かな土地で、美味しいエサを食べてのびのびと育った牛が美味しいというのは言えると思います。. . 十牛図(じゅうぎゅうず)は、悟りにいたる10の段階を10枚の図と詩で表したもの。 「真の自己」が牛の姿で表されているため十牛図といい、真の自己を求める自己は牧人(牧者)の姿で表されている。.

知っている人も多いでしょうが、十牛図は元々は「八牛図」でした。 後年、新たに第九・第十の図が加えられて現在の姿になったのですが、 これはなぜかというに、1〜8までの図は自己修養のステージを表した図で、8番目の図が自己修養のゴールを表しているんですね。 で、そのゴールの向こう側である9・10の図は 「利他」つまりは世のため人のために自分を活かす段階を示しているのです。. 仏教では、迷いや悩みの世界をこちらの岸「此岸(しがん)」、幸せのある世界を向こうの世界「彼岸(ひがん)」といい、その間には大きな川が流れているとされています。お釈迦(しゃか)さまは、この川を渡って彼岸にたどり着くには、6つの方法があると説きました。 1、布施(ふせ). 努力 5、禅定(ぜんじょう). 厳しい修行の結果、妄想を絶ち切り、煩悩を脱して、ようやく飼いならすことができました。 しかし、一度捕まえたからといって「悟った!」と油断してはなりません。 飼いならし続けるには、常に鞭を打って戒めなければなりません。 ひたすら心牛のことだけを想い、十分に飼いならした結果、牛の方から自分のところに近づいてきました。 ここまできたら欲にまみれた俗世間の中にいても染まることはありません。 つまづきながらも一人歩きできるようになり、どのような事態にも笑殺できるようになりました。 真理と自己を一つにできた段階です。 「客観的に知っている」という段階から脱却して、真理と一体になり始めたわけです。 ここまできたら悟りの境地に一歩足を踏み入れた、という感じでしょうか?^^ それでもまだ図は半分なんですね。.

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